お待たせしました。3年前の2月のブログ配信以来、3年半ぶりの投稿です!
一般社団法人ファブデザインアソシエーション(FDA)理事長の竹末俊昭です。
前回(2023年2月)のブログでは、「今から1万5000年ほど前に縄文時代が始まり、その後1万3000年と意外に長く続いた」というお話をしてきました。
その間、このブログを3年半も中断していたわけですが、実は台湾出身の某書道家と出会い、マン・ツー・マンでの指導をいただき4年間の修行を続けておりました。お蔭さまで中国の隷書・草書・行書そして楷書に至るまで一通りの手習いを卒業しました。そして、その修行を終える頃から、『書の解体新書』という仮のタイトルを付け、師匠の下で教科書の編纂の手伝いを進めておりました。楷書編は一応脱稿しましたが、草書編についてはまだ留まっているところです。
さらに歳のせいでしょうか、2025年夏から今年の夏まで、『多発筋痛炎』というリウマチに似た全身の関節炎に悩まされ、現在もステロイド剤で治療中という状態を続けておりました。現在はゆっくりと薬の量を減らしながら少しずつ回復に向かっていますのでご安心ください。(80歳間際の年齢になりましたので仕方がありません)
そこで気づいたことがあります。「古代の日本人が縄文・弥生時代の後期まで使っていた文字が残っておらず、当時の中国(隋や唐の時代)に大陸から渡ってきた『漢字』を導入したのはなぜだろう?」という疑問です。確かに高校の教科書では「『後漢書』東遺伝には倭の奴(ぬ)の国王が紀元57年に後漢の光武(こうぶ)帝(てい)のもとに使いを送って印綬を与えられ・・・」と習いました。しかし、縄文時代から弥生時代に掛けて1万7000年もの間日本人はどのような「コトバ」を使ってコミュニケーションを図っていたのかという記録がほとんど残されていません。土器に描かれた文様だけでコミュニケーションを図っていたわけではないと思います。残念ながら文字も文法らしきものも残ってはいないようです。歴史的には『古事記』『日本書紀』から『万葉集』に至るまで、「渡来人(とらいじん)から伝わった漢の類似音を使って『ヤマトコトバ 』を表現した」と伝えられています。
「漢字の『訓読み』にあたる『ヤマトコトバ』が、日本列島で使われていたところに、渡来人が漢字を持ち込んで、倭人(わじん)が類似した『音読み』を当て字にして使い始めた」というのが通説ではあるものの、何か手掛かりはないものかと、生成AI(ChatGPT)にその辺のことを尋ねてみました。数回のやり取りで分かったことは、「縄文語、弥生語、古墳時代語はあったようだが、地方ごとに複数の言葉が混在しており、それが奈良時代になって朝鮮半島を経由し、中国大陸から入ってくるにしたがって混合し始めた」というような優等生的回答でした。
おそらく、文化人類学、考古学、言語学などの分野では研究者が研究課題には挙げるものの、肝心の日本には『古事記』『日本書紀』『万葉集』以前に残された文献は見当たらないために、中国大陸はじめ東南アジアの歴史にまで遡って探り出さなければ解決できないということが分かりました。
後日、図書館から数冊借用し、古代史や言語学、考古学の学者の文献を読み漁ってみました。
その結果、「・・・という複数説があるが・・・」というレベルの解説が多く、残念ながら生成AIからの回答通り、研究者も文献も多くないということも分かりました。
「比較音韻学」からは、語彙(ごい)は「ウラル・アルタイ語族」(ロシア・シベリア南部地方)に類似はしているものの、「音韻対応」の証明がなされないので、断定はできないとのこと。一方「マライ・ポリネシア島などの南方の音韻に類似」ということで、水耕栽培技術などと一緒に渡来した可能性もあるという研究もありました。
前者は数万年前にシベリアから樺太が氷河期に繋がっていたことで、人種が日本列島に流れ込んだ説であり、後者は海を渡って南方か朝鮮半島を経由して入ってきた説となるようです。
●結論的には、江戸後期~明治初期の識字率が、わずか日本の総人口の10~20%程度だったとのこと。
つまり縄文~近代に入るまで、会話はできても「書くこと」は一部の識者に限られていたと考えられます。
●今のところ、小生のつたない経験と色々な書籍からヒントを得た結果を次のようにまとめてみました。
① 鳥やハチでも、ある程度のコミュニケーションをとる手段を持っているくらいの能力はあるはずで、個体だけでは社会生活を営むことはできない。したがって何かしらの声や身振り、表情、呼びかけ、歌などで意思伝達をしていたはずである。しかし、縄文から弥生時代に掛けては、土器に描かれた絵やパターンに加えて「×」「キ」「卌」のような記号らしきものが残されているだけのようである。
② 遺跡などから発掘される土偶や土器の文様などから、ヒトや動物が死んだときに呪文を唱えた形跡は残っている。そこには「語り」や「物語」などのナラティブ手段も存在していたのではないだろうか。ただ、近現代の研究者による「土偶を伴う埋葬・再葬を手掛かりに死者儀礼を論じている」文献はあるものの、ほとんどが推測の域を脱していない。
③ 知識や感情を伝える方法は言葉だけではない。狩りや食物の加工を見せて教える、子どもに道具を使わせる、表情や声色で好意・拒絶・危険を伝える、といった方法を執っていたが、残念ながら行為そのものは金(きん)文(ぶん)や銘文(めいぶん)(祭礼用の青銅器に鋳込まれたもの)として残されていない。
④ 4000年の歴史を持つと言われる中国の歴史では「甲骨(こうこつ)文字」や「篆書(てんしょ)」として残され、今でもハンコの文字として使われている。そして3000年前の秦の時代に生まれた「隷書(れいしょ)」は、石に文字が刻まれて残っている。では日本列島には「なぜ残っていないのだろうか?」という素朴な疑問が沸く。
⑤ 「2000年前の漢の時代になって、ようやく渡来人が朝鮮半島を経由して日本列島に渡り、仏教とともに『漢字文化』を持ち込んだ」とされている。逆に遣隋使の小野(おのの)妹子(いもこ)や遣唐使の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)、吉備真備(きびのまきび)などの大陸に渡った古代人は中国語でコミュニケーションできるほどの高い能力があったらしい。
⑥ 歴史的には645年になってようやく中国(唐)の制度を参考にしながら「改新(かいしん)の詔(みことのり)」(大化の改新)を出し、天武・持統天皇時代に、「国家の威厳として何かまとめておかなければ…と、『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)をまとめさせた」とある。内容的には、『古事記』が渡来人の秦(はた)氏(し)が中心になって当時の地方風土記をまとめた物語となっており、『日本書紀』は中臣(なかとみ)氏(し)(のちの藤原氏)や蘇(そ)我(が)氏(し)などの豪族同士の争いの後の偏見が混ざった内容となっている。(詳細は省略)
⑦ 一方780年頃に「万葉仮名」として知られる『万葉集』がまとめられた。中国の漢字「真名(まな)」に対する謙遜の意味で『ひらがな』を「仮名(かな)」とした。さらに「不完全な仮名」として「片仮名(かたかな)」を加えて、世界一複雑な言語システムになって現代に至っている。
外国人から見ると、日本語というのは「不思議な言葉」と映るのかもしれない・・・。
以上、たまたま「書道」という文字文化に接した結果、素朴な疑問に遭遇しましたが、ご意見、ご感想をいただければ幸いです。 ⇒ 宛先:竹末 俊昭 takesue@fabdesign.or.jp


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